河田美佐料理研究室  
【 ケイコとマナブ 2004年2月号 】
特集記事 「生き方も見習いたい素敵な先生の履歴書」

深い知識と心で 生徒を温かく包み込む

料理研究家
 河田美佐 さん 河田美佐料理研究室
「土鍋で炊くご飯はおいしいのよ。お芋はご飯の半分のカロリーだからたくさん食べても大丈夫」

先生の笑顔は人をほっとさせる。
「4人のアシスタントは私の分身。ご近所の方に『お宅はみなさんいい方ですね』と誉められると恥ずかしくなっちゃうんです(笑)」
河田料理研究室が誕生したのは昭和30年代。小規模な料理教室などほとんどなかった時代だった。結婚を機に料理学校に通い始め、離婚後、料理を生業にすることを決めた。今と同じこの場所で、家庭料理にこだわった料理教室を開いた河田さんはその時20代。若いことでバカにされないようにと、エプロンではなく白衣を制服にし髪をアップにして、軌道に乗せるまではファッション雑誌は見ないと決めた。実母の理解と、息子に不自由な思いはさせたくない、という母親としての義務感が、20代の河田さんを奮い立たせていた。開講当初の生徒数は10人足らず。なんとかしなくてはと、半年後、「小さな料理教室ができました」という広告を出したことで一気に生徒の数は増え、以後教室は比較的順調に運営されてきた。
日本の家庭料理を勉強するのは大変だけど
 
河田料理研究室は、今年40周年を迎える。駅ビルで教室を開かないかと誘いを受けたこともあったし、学校法人にして会長になったほうがラクだからそうしなさい、と言われることもあった。それでも、河田さんは小規模の教室にこだわった。

 「座って人をアゴで指図するより、みんなといっしょに料理作ってるほうが楽しいじゃない(笑)。大きくしなかったからこそ、こうして続けてこられたんだと思います。これからもこのスタイルで続けます」

 確かにそれも40年継続した理由のひとつだろう。しかし、それだけではない。世界の料理を見たい。知識を広げて生徒に還元したい。そんな河田さんの探究心と、体験に裏付けされた知識と心の深さが人を惹き付け、常に多くの人が、河田先生の元に集まってくるのだろう。35年前。1ドル300円の時代に、借金をし、子供を母親に預け、教室を1ヶ月休校してイタリアに渡った。以後、西ドイツ、フランス、スペイン・・・と数年に一度は海外に渡り、時に一般家庭にホームステイしながら、時に宿に滞在してホテルの厨房で料理を学び続けた。

 「私はこれまでずっと、家庭料理を貫いてきました。健康のためにも、日本人には、家庭料理がいちばんいいと思っています。しかも、和洋中が混在しているのが日本の家庭料理。だからこそ、勉強することは
 とても多く、勉強するのはそれは大変です。でも、いつも新しいことを吸収していた。吸収したことは生徒さんにも伝えたい。教えるというより、生徒さんが少しでも向上していくためのお手伝いをしたいと思う気持ちが強いみたい。包丁ひとつ持てなかった生徒さんがどんどん変化していく姿を見るのは、何よりうれしいことですから」
小さいけれど、日本の食文化の伝え手に・・・
 おせち料理コースのある12月は1年でいちばん忙しい時期。おせち料理の仕込みは相当に大変なものらしい。

 「おせちのコースをやめたい、と思うことは何度もあります。でも、私が辞めたら、何人かの生徒さんはおせちを知らないままで終わってしまいます。私たち世代がそれをしてはいけない。小さいけれど、日本の食文化の伝え手を担わせていただいていると思うんです。私はお役立ち人間の一部でいたいのでしょうね(笑)」
PROFILE

東京都生まれ。高校を卒業後テレビ局に就職、3年間のOL経験を持つ。その後、3年間の結婚生活の間に料理学校に通い始める。次第に、近隣の母親たちから料理を教えて欲しいという声がかかり、そのお宅に出向いてミニ料理教室を開いたり、企業に出向いて料理教室を主宰するなど、料理を教える仕事が徐々に増えていく。1964年4月、20代で現在の料理教室を開講する。世界を見てみたいという思いから、69年のイタリア国立料理学院への短期留学を皮切りに、西ドイツ国立ボルフェビュッテル製菓学校、スペインプリンセッサ・ホテルなどで学び、77年にはフランスのホテル・カンカングローニュ(四つ星)では女性として初めて厨房に立つ。その後も世界各地を訪ね、家庭料理を学ぶ。世界各国のマナーにも造詣が深く、教室では、料理だけではないマナーや、女性のたしなみについても学ぶことができる。現在、中学生から82歳までの生徒数は約180人。20年以上通い続けている生徒もいる。

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